岡山・島根ドライブ 出雲国風土記
■出雲国府跡
今からおよそ1,300年前(奈良時代初め)、全国60余国に地方政治の中心となる国府がつくりられました。
国府の周りには様々な公的施設がつくられ、これらをまとめて「国府」と呼んでいます。
国府のうち、国庁は発掘調査によって六所神社境内周辺にあったことが明らかになりました。
この付近は国庁の正門があったと推測されます。
ここはまさに古代出雲の政治・行政・文化の中心地だったのです。

・後殿
この建物は国庁の中心的な場所である政庁に建つ建物の一つで「後殿」と呼ばれており、重要な儀式などが行われていた場所です。この建物の南側に政庁正殿や脇殿などがあったと推定されますが、発掘調査が実施されていないため実態はわかりません。
政庁では、ヒノキの柱の基部や瓦が発見されており、掘立柱建物でありながら一部に瓦を葺いていたようです。

■十字街(ちまた)
出雲国庁、意宇郡家の北で道は正西道(まにしのみち)と枉北道(きたにまがれるみち)に分かれて二つの道となる”記されています。正西道は古代山陰道のことで、枉北道は島根半島や隠岐へ続く道のことです。
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国の東の堺より、西へ去ること二十一里一百八十歩、野城(のき)の橋に至る。長さ三十丈、広さ二丈六尺。
飯梨河(いいなしがわ)。
又、西へ二十一里、国庁(くにのまつりごとのつかさ)、意宇の郡家(こおりのみやけ)の北十字(きたじゅうじ)の街(ちまた)に至り、即ち分かれて二つの道と為る。
一つは正西(まにし)の道、一つは北へ枉(まが)れる道。
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■意宇杜(おうのもり)
意宇杜(おうのもり)遺跡
「出雲国風土記」によれば、国引きを終えられた八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、
「今は国引き訖(を)へつ」と詔(の)りたまいて、意宇の杜に御杖衝(みつえつ)き立てて「意恵(おえ)」と詔いたまいき。故、意宇(おう)という」と述べられ、
注に「謂(いわ)ゆる意宇の杜は郡家の東北の辺、田の中にあり。囲み八歩ばかりその上に木の茂れるあり。」とある。
国引きの大業を終えられた八束水臣津野命が用いられた呪力を持った御杖の「より代」がこのタブの木であり、
古来「意宇のタブ」として近隣から広く崇拝されている。毎年十月一日、上竹矢・中竹矢の講中の人々によって祭りが営まれている。
このように里人の信仰に支えられて永い歳月を風雪に耐えてきたこの遺跡は、歴史学的にも、民俗学的にも貴重なものである。
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意宇と号(なづ)けし所以(ゆえ)は、国引き坐(ま)しし八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)、語(こと)りたまひしく、
「八雲立つ出雲国は、狭布(さぬ)の稚国(わかくに)在(な)るかも。
初国(はつくに)小さく作ららせり。
「故(かれ)、作り縫はむ」と詔(の)りたまひて、
「志羅紀(しらき)の三埼(みさき)を、国の余り有りやと見れば、国の余り有り」と語りたまひて、
童女(をとめ)の胸鋤(むなすき)取らして、
大魚(おをう)のきだ(肉)衝(つ)き別(わ)けて、
はたす(端)すすき穂振り別(わ)けて、
三身(みつみ)の綱打ち掛けて、
霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、
河船(かはぶね)のもそろもそろに、
国来(くにこ)、国来と引き来縫(きぬ)へる国は、
去豆(こづ)の折絶(をりたえ)より、
八穂(やほ)に支豆支(きづき)の御埼(みさき)なり。
此(こ)れを以て、堅め立てし加志(かし)は、石見国と出雲国の堺(さかひ)なる、
名は佐比売山(さひめやま)、是(これ)なり。
亦(また)此れを持ち引ける綱は、薗(その)の長浜(ながはま)、是なり。
亦(また)、「北門(きたど)の佐伎(さき)の国を、
国の余り有りやと見れば、国の余り有り」と語りたまひて、
童女(をとめ)の胸鋤(むなすき)取らして、大魚(おをう)のきだ(肉)衝(つ)き別(わ)けて、
はたす(端)すすき穂振り別(わ)けて、三身(みつみ)の綱打ち掛けて、
霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、
河船(かはぶね)のもそろもそろに、
国来(くにこ)、国来と引き来縫(きぬ)へる国は、多久(たく)の折絶(をりたえ)より、
狭田(さだ)の国、是(これ)なり。
亦、「北門良波(よなみ)の国を、国の余り有りやと見れば、国の余り有り」と語りたまひて、
童女の胸鋤取らして、
大魚のきだ衝き別けて、
はたすすすき穂振り別けて、
三身の綱打ち掛けて、
霜黒葛くるやくるやに、
河船のもそろもそろに、
国来、国来と引き来縫へる国は、宇波(うなみ)折絶より、闇見(くらみ)国、是なり。
亦、「高志(こし)の都都(つつ)の三埼(みさき)を、
国の余り有りやと見れば、国の余り有り」と語りたまひて、
童女の胸鋤取らして、
大魚のきだ衝き別けて、
はたすすすき穂振り別けて、
三身の綱打ち掛けて、
霜黒葛くるやくるやに、
河船のもそろもそろに、
国来、国来と引き来縫へる国は、
三穂(みほ)の埼。
持ち引ける綱は、夜見嶋(よみのしま)。
固め立てし加志(かし)は、伯耆国(ほうきのくに)有る火神岳(ひのかみたけ)、是なり。
「今は、国引き訖(を)へつ」と語りたまひて、
意宇(おう)の杜(もり)に御杖(みつゑ)衝き立てて、
「意恵(をゑ)」と語りたまひき。
故(かれ)、意宇と云(い)ふ。
所謂(いはゆる)意宇の社は、郡家の東北の辺(ほとり)、田の中に有る嶺(をか)、是なり。
周(めぐ)り八歩(はちほ)ばかり。
其(そ)の上に一(ひと)もとの茂(しげ)れるあり。
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■意宇川(いうがわ)
現在「意宇川(いうがわ)」と呼ばれているこの川は『出雲国風土記』にも登場し、アユやウグイがいたと書かれている。 また、河口あたりの風景は、中央政府(現在の奈良県)からここへ赴任した役人にも親しまれ、万葉集にも登場している。
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源は郡家の正南一十八里なる熊野山より出で、北へ流れて入海に入る。年魚、伊具比有り。
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