【湖西線】【駅周辺探索】近江高島駅 乙女ヶ池・大溝城・大溝陣屋 総門
■乙女ヶ池
この内湖は、天平宝字8年(764)恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の戦場となり、敗れた押勝とその一族郎党が捕らえられて処刑された「勝野の鬼江」と推定されています。
又、背後の山中には壬申の乱(672)の際、近江朝(大友皇子軍)の基地であった三尾城が存在していたと考えられるなど、日本の古代史上の二大戦乱の場となった所です。
またこの地は、古代、びわ湖舟運に欠くことのできない天然の良港でした。
付近の勝野・三尾(水尾)崎・真長浦(まなごのうら)・香取浦の地名が歌枕として『万葉集』に詠まれています。
中世の戦国期には、武将たちが周辺の山中に城や砦を築いて、領国の護りとしました。
また、軍事上この地を重視した織田信長は、甥の織田信澄に大溝城を築かせて城主としました。
乙女ヶ池は、琵琶湖に通じる大溝城の外濠としての務めを果たしたのです。
かつては洞海(どうかい)、ウラウミなどと呼んでいましたが、昭和初期、淡水真珠の養殖場として利用された頃から「乙女ヶ池」と呼ぶようになりました。

■大溝城
ここ大溝に城が構えられた理由には、水陸交通の要衝であったこの地を高島郡支配の拠点とすることの他、織田信長による琵琶湖の支配権把握の目的があったと考えられる。
伝承によれば城の棟棟(設計)は明智光秀であったとされています。
大溝城の初代城主は信長の甥・織田信澄(のぶずみ)であるが、この他にも信長は、安土城、長浜城、坂本城など琵琶湖に面した水城を築かせ、「琵琶湖城郭ネットワーク」をつくり上げた。
大溝城は、琵琶湖や内湖を堀として取り込み、各城と湖上交通で直結する軍港でもあった水城としての景観をそのまま残している貴重な遺跡である。

・大溝城本丸跡
発掘調査では、ほぼ同時期に築城された安土城と同じ文様の軒丸瓦が出土されるとともに、大溝城が水城として機能していたことを裏付ける、船着き場や土橋、本丸を囲む堀跡も見つかっている。
現存する天守台石垣部分は全体的に規模の大きい石材が用いられており、全体は野面積みで、隅部は算木積みである。

・大溝陣屋 総門
大溝陣屋総門は、城下町に配置された武家地と町人地の境界に設けられた門で、その位置および名称から、堀で囲まれた藩庁と武家屋敷群からなる大溝陣屋への出入りに使われる最も重要な門であったと考えられます。
従って、総門は江戸時代初期に陣屋が整備された当初から設けられていたと推定されますが、現在の建物は、棟札から宝暦5年(1755)に建てられたものであることがわかっています。









