天滝公園キャンプ場・神子畑選鉱場跡
■天滝公園キャンプ場
元々棚田のキャンプ場。
サイトまで荷物を運んでもらえる。(人も)

星を見たかったので一番上のサイト(6番)に。
が、曇りで夜半まで雨。。

ちなみに、11番のほうが障害物がなく、
星空観察に向いていそうだった。

0時から断続的に星は見えるようになる。
微妙に霞んでいるのか天の川は見れず。残念。。

帰りも迎えに来てもらえる。
(前日の送ってもらう際に伝えておくシステム)

■神子畑鋳鉄橋(みこばたちゅうてつきょう)公園
・神新トロッコ(神子畑~新井間)
神子畑銀山繁栄時代、神子畑で採掘された銀鉱石を生野銀山へ搬送するため、明治18年(1885年)神子畑~ 生野間に専用道路が完成した。
当初は、馬車、手引き車による搬送であったが、明治22年トロッコ搬送導入によるレールが設置され、大正8年 神子畑選鉱場として稼働後は、精鉱を積んだ15台の動力式トロッコにより、 JR(旧国鉄)新井駅まで搬送されていた。
昭和32年(1957年) トラック搬送が導入され、トロッコ搬送は廃止された。

■神子畑鋳鉄橋
国指定文化財(建造物)昭和32年6月27日指定
明治11年神子烟鉱山が再発見され、明治14年本格開坑以後、その鉱石運搬のために返路が必要となり、神子畑一生野間16.2km,幅員3.6kmの馬車道(鉱山道路)が建設され、 多くの橋が架けられた。
この工事は明治16年4月に始まり、明治18年3月までの2年間にわたって総工事費4万円をかけた大工事であったとされる。この馬車道が神子畑川を横切るときに架けられたのが神子畑鋳鉄橋である。
また、工事すべての設計・施工はともに日本人となっているが、生野鉱山開発にあたったフランス人技師団の技術指導の結果によるところが大きい。
神子畑一生野間の馬車道には、当時それぞれ構造の異なる5つの橋が架けられていたが、現存するものは、神子畑鋳鉄橋(橋長16mの・連アーチ橋)と羽測鋳鉄橋(橋長18 mの二連アーチ橋)の二つのみであり、ともに美しい洋式橋の姿を残している。
神子畑鋳鉄橋は日本に現存する鉄橋としては三番目に古いとされるが、一番目の大阪の心斎橋(明治6年)は錬鉄製であり、二番目の東京の弾正橋(明治11年)は錬鑄混用である。したがって本鋳鉄橋は全鋳鉄製の橋としては日本最古の橋となる。
特に、木橋、石橋から煉瓦へ、さらに鋳鉄、錬鉄、鋼鉄へと発展してきた材質からみた日本橋梁史の流れのなかで神子畑鋳鉄橋は、その過渡期的なものであり鋳鉄橋発展史上最終段階のものとしての意味からも歴史的に価値があり、力学的な美しさを持った人変貴重な文化財としての橋である。
昭和54年に国県の補助を受けての調查工事、昭和57年9月から昭和58年7月31日まで保存のための解体復元の大修理が行われた。
竣工 明治18年3月
構造:鋳鉄製一連アーチ橋
アーチ半径:60.0m
橋長
上流側:15.969m
下流側:15.997m
幅員 3.727m
橋高:3.810m
(水面より桁上端まで)

■神子畑選鉱場跡
神子畑鉱山は平安時代に開山したと言い伝えられ、15世紀から採鉱が盛んになったとされています。
神子畑鉱山が最も繁栄したのは、明治10年代から30年のこと。
明治の新政府が生野鉱山周辺を調査した結果、 明治11年(1878)に新鉱脈が発見され、生野鉱山の支山「加盛山」として銀の採鉱が始まりました。
しかし、明治 40年以降は鉱脈が減少し、新鉱脈を探すことになります。
明治42年に明延鉱山で錫鉱脈が発見されたことで、 採鉱は明延に移りました。
神子畑鉱山は明延鉱山の鉱石を選鉱する「神子畑選鉱場」に生まれ変わりました。
明延鉱山で採鉱された鉱石の選鉱場となった神子畑は、大正8年(1919)に錫の選鉱場を竣工。
この建屋は木と鉄骨で造られ22階建てで、屋根はトタン張り、擁壁は石積みコンクリート造りで、幅110m、 斜距離165m、高低差約75mでした。
昭和9年(1934)には硫銅選鉱場を開設し、昭和15年の拡張工事を経て、「東洋一」と言われる選鉱施設となりました。
最盛期の昭和30年代には、神子畑地区に1,300人もの人々が生活していました。
神子畑選鉱場の特徴であった錫の比重選鉱技術は、海外からも視察団が訪れるほど高い評価を得た技術でしたが、昭和62年(1987)の明延鉱山の閉山により、その役目を終えて操業を停止しました。
その建物は長らく残っていましたが、平成16年に老朽化のため取り壊され、 現在はコンクリートの基部やシックナー(液体中に混じる固体粒子を泥状物として分離する装置)の一部等が残っています。
また、周辺には選鉱を支えた施設として、明治政府に鉱山技術者として雇われていたムーセが住んでいた二番館を生野から移築し、事務所や診療所として使用していた旧神子畑鉱山事務舎(県指定有形文化財)。 などがあります。

・インクライン
傾斜面にレールを敷いて、動力で台車を動かして貨物を運ぶ装置のことをインクラインといいます。
ケーブルカーと構造は同じで、貨物用の場合、特にインクラインと呼びます。
神子畑選鉱場は傾斜地に作られていたので、各フロアの物と人の移動を担っていました。巻
き上げ機で台車を2つ繋いで斜面を往復していました。
操作は頂上の操作室で行われ、線路の真中が複線になって対向できるようになっています。

・シックナー
微細な個体が混じった液体から、水分を除いて濃縮(脱水)、
鉱石と水分・薬品を分離して精鉱を取り出す非ろ過分離装置。
百尺(約30メートル)の他に、55尺(約16メートル)がある。

・ムーセ旧居
(県指定文化財 旧神子畑鉱山事務舎)
旧神子畑鉱山事務舎は、当初、官営生野鉱山の外国人宿舎として明治 5年(1872)に建てられた。
その後、神子畑鉱山の開発にともない、明治20年(1887) にこの地に移築され、閉山までは神子畑鉱山事務舎や診療所として使用されてきた。
今回の修復工事は移築時の事務舎の姿に復されているが、外観や間取りの特徴などは生野時代の官舎の姿を引き継いでいると考えられる。
背後に建つ付属屋は生野時代の写真を基に新たに整備された。
建物は明治初頭に建てられたコロニアル・スタイルと呼ばれる特徴をよく示している。
正方形の平面の中央に廊下をとり、両側に2室ずつ配した簡潔な間取りや、四面にベランダを巡らせた開放的な外観もこの時代の特徴といえるものである。
一方、構法は伝統的な桟瓦葺の方形屋根に和小屋、軸組を用いている。
内部の暖炉は発見された炉石を元に3箇所が復され、暖炉飾りは明治後半の神戸の異人館の形状を参考にして整備された。
漆喰塗りの壁や和紙貼り天井、鐘戸付きの窓など、明治初頭の洋風技法をよく示している。
この建物の建設にはフランス人のレスカス (Jules Lescasse 18412-1901) と加藤正矩という日本人が関与したことが記録として残されている。
レスカスは明治村に移築されている西郷従道部(明治13年/国重要文化財)の設計者として知られる土木・建築技師である。
この建物は外国人によって外国人の居住のために設計されたものであるが、技術や素材は日本の木造建築の伝統をそのまま継承しているといえる。
明治のごく初期に建てられ、その全体像がうかがえる洋風建築は全国的にみてもわずかしか残存していないので重要である。
なお、生野時代に鉱山技師のムーセが住んでいたのではないかということからムーセ旧居という呼び名で親しまれているが、史料からは定かではない。

・明神電車(1円電車)
この電車はかつてマスコミ等で全国的に紹介され話題を呼んだ有名な錫の鉱山“明延”の1円電車です。
昭和4年養父郡大屋町の明延鉱山と朝来郡朝来町の神子畑選鉱場の間6.1kmに鉱石輸送のための明神電車が開通しました。
昭和20年この鉱石運搬電車に、従業員とその家族の交通の便をはかるためはじめて客車が連結され登場したのがこの電車です。
最初の料金は50銭でスタート、昭和27年に1円に改訂、昭和62年3月明延鉱山の閉山により明神電車が廃止されるまで長期間料金1円のまま据置き有名になりました。
1円電車の客車は3輌あり、くろがね号・わかば号・あおば号と命名され、永年に亘り地域住民の足として重宝がられました。
本来の使命を終えた後、くろがね号は養父市大屋町明延の地に、わかば号は神子畑の地に、又あおば号はかつて兄弟鉱山であった生野の地に居を移し、それぞれの地で観光に一役買うことになったものです。





















