一乗谷朝倉氏遺跡
20260604
一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷は、文明3年(1471)から天正元年(1573)までの103年間、戦国大名朝倉氏が領国支配の拠点とした所です。
周囲の山には地形をたくみに利用して山城や、櫓等を配置し、谷の入り口とその1.7㎞上流部の谷幅が最も狭まった所に上下二つの城戸を設けて防御を固めています。
1967年にはこの二つの城戸で区画された「城戸ノ内」と呼ばれる町の中核部を中心に278haという広大な地域が特別史跡として指定され、遺跡の調査研究と保存活用を計る諸事業が進められています。
これまでの調査によって谷内には城主の館や一族の居館・家臣団屋敷・寺院そして商人や職人が住んでいた町屋が、道路に沿って計画的に配置されていたことが明らかになりました。
良好に残されている屋敷や建物・道路などの遺構と陶磁器を主とする多くの出土遺物から戦国時代の町やそこで暮らした人々の様子を具体的に知ることが出来ます。
なお、優れた庭園遺構も残されており、これらは併せて特別名勝にも指定されています。て谷内には城主の館や一族の居館・家臣団屋敷・寺院そして商人や職人が住んでいた町屋が、道路に沿って計画的に配置されていたことが明らかになりました。良好に残されている屋敷や建物・道路などの遺構と陶磁器を主とする多くの出土遺物から戦国時代の町やそこで暮らした人々の様子を具体的に知ることが出来ます。
なお、優れた庭園遺構も残されており、これらは併せて特別名勝にも指定されています。
■下城戸
東西の山が迫り、幅が約80mと最も狭まった谷の入口に設けられた重要な防御施設がこの下城戸です。この1.7km上流に設けられた上城戸と共に城下町一乗谷の中心となる城戸ノ内を区画しています。
この城戸は、基本的には幅約10m・深さ約3mの濠と幅約15m・高さ4.5mの土塁、そして3.6m離れて通路をさえぎるように食い違いに配置された同様の土塁によって構成されています。なお、濠は一乗谷川と直接つながっていると考えられます。また、出入り口部には、重さが10トンを超す巨大な石を積み上げており、それらの中には40トンを超すものもあります。
城戸の内側には西の山裾から突出する土塁の南辺に沿って土塀の基礎部と推定される幅約1.5mの小土塁が設けられており、その間が広場となっていたと考えられます。そして、南には小規模な屋敷が連続して検出されており、中には越前焼大甕を30個備え付けた建物もあり、商人・職人などの町屋が接していたと考えられます。

■瓜割清水
瓜割清水の広さは約80㎡であり、古くから朝倉氏の御膳水に供したと伝えられています。
山裾の東と南の護岸は後世の石積であり、朝倉時代より規模が縮小していると推定されます。
往時からどんな旱魃の時も涸れたことがないといわれています。
今でも夏は冷たく冬は温かな清水が、滾々と湧き出ており、地元では生活用水として現在も利用しています。
南の高台には南陽寺跡があり、山麓の「ビクニン清水」を当時、生活用水に使っていたようです。
さらに東南東の山上近くには「不動清水」があります。
一乗城山から銅の筒で瓜割清水に水を引いてきたという伝説があるように、これらを結ぶ水源の存在が想定されます。

■朝倉景鏡(あさくら かげあきら)館跡
当地は「一乗谷古絵図」によれば、朝倉式部大輔景鏡の館があったところと推定されています。
景鏡は朝倉氏最後の当主義景の従兄弟にあたり、朝倉一族の中でも特に地位が高く、大野郡司も務めていました。
屋敷の南北には外濠と土塁がめぐり、敷地の規模は5000㎡以上と推定され、朝倉義景館に次ぐ広さです。
発掘調査では礎石建物、土塁、濠等が検出されました。
遺物では地鎮具が発掘されています。
越前焼の小壺の中に錫製の仏花瓶が納められており、中には米、麦、ゴマ、金泥を塗った杉の小枝、琥珀などが入っていました。
天目茶碗の出土量も多く、また北の濠跡からは、尺八の一種である一節切が出土しています。
建物跡はアスファルトブロックで縁どりし、内部を舗装して平面規模を表示しました。
土塁跡は盛土で表現し、濠跡は珪石敷で幅を表示しました。

■特別名勝 一乗谷朝倉氏庭園 南陽寺跡庭園
南陽寺は、朝倉氏の子女が入寺する禅宗の尼寺で、戦国期には「金碧奪目(きんぺきだつもく)」と称されるほどの豪華さを誇っていました。
永禄11年(1568)には、室町幕府15代将軍となる足利義昭をもてなすために、庭前の糸桜の下で観桜宴(歌会)が開かれたと伝えられています。

■朝倉館跡
第5代当主 朝倉教景(あさくら のりかげ)の館跡です。
規則正しく並んだ石の上には建物の柱が立ち並び、右図の通り建物群を構成していました。
外は西側の正門の他に、北と南側にもありました。高さ1〜4.5m、幅5〜13mの土塁の内側の面積は6,425㎡ですが、実際の館の敷地としては背後の山の一部および隣接する湯殿跡庭園も空堀によって区画として取り込んでいることから、その部分も含めると約19,000㎡となります。
この館では、義景が永禄11年(1568)に後の15代将軍、足利義昭を招いて盛大にもてなしたことが、『朝倉亭御成記』などによってわかっています。

■湯殿跡庭園
この庭園は朝倉館内の高台に位置しています。導水路が発掘され、庭がつくられた当初は、自然の滝の表現である滝組から池に水が流れ落ちていたことが分かっています。
また、仏像に見立てたと思われる「三尊石組」は、千畳敷山と呼ばれる背景の小山と、初代朝倉敏景の墓をのぞむ位置にあります。
そのほか、亀・鶴をかたどったと推定される石組もみられます。
戦国時代の石組が後世に改変されず、ほぼそのままに残されており、国の特別名勝の指定を受けています。
なお、現在の庭園の名称は、江戸時代の地誌書の「湯殿跡・風呂屋人跡(一行院レリ)」の記述に基づきます。

■中の御殿跡
中の御殿跡は、朝倉義景の実母光徳院の屋敷跡と伝えられています。
この高台は、南陽寺跡や諏訪館跡とならんで義景時代の華やかな生活の場であり、朝倉館近傍の屋敷に朝倉氏当主の妻子などが居住したであろうことが想像できます。
屋敷は南の道路に対して門を構え、この道路に面する南辺と東辺に土塁、さらに東辺土塁の外側と北辺に空濠を廻らしています。
屋敷内は、門を入って右手に小規模な建物と、さらに奥に庭園(砂利敷部分)が検出されています。
また、庭園北側に規模は明らかではありませんが、礎石建物が検出されており、主たる建物があったと考えられます。
これより北東奥には南北7間、東西2間を基本とする建物が検出されており、規模や位置等から、日常の建物と考えることが可能です。

■諏訪館跡庭園
この庭園は戦国時代の石組が後世に改変されず、ほぼそのままに残されている点が評価され、国の特別名勝の指定を受けています。
この場所は、朝倉氏の最後の当主となる義景の妻の館跡と伝わっています。
敷地内に段差があり、上段と下段から構成されています。
発掘調査により水を庭園に引く暗渠(地中に埋められた水路)が検出され、現在もその暗渠をとおった水が、上・下段の両方につくられた滝石組に流れ落ちています。
下段の滝石組には、高さ4mを超える巨石が用いられており、巨石を立てる技術をもつ集団の庭づくりへの関与がうかがえます。

■米津(よねづ)
米津は、一乗谷川右岸、上城戸跡から朝倉館跡に向かう中間に位置します。
東側の高台には腹赤館(はらかたて)跡があり、城下町の中心部に近いことから、重要な場所であったと考えられます。
米津では、平成19年度に発掘調査を実施しました。
遺構は一部削平を受けていたものの、土塁を巡らした敷地に、いくつかの建物跡や井戸跡のほか、敷地南東では炉跡を確認しました。
また遺物は、日常生活で使用した物のほか、刀装具を型押しした土製の型や金属を加工する材料や道具が出土しました。
これらより、この地には朝倉氏から特別な権限を与えられ、刀装具という特殊な製品を製作したお抱えの金工師がいたことが想定されています。

■上城戸
上城戸は、城下町の防衛を目的とし、北側の下城戸と対をなす施設です。谷幅が狭まり、一乗谷川と山林に挟まれた場所に築かれています。
この高く長い土塁と、濠、そして川や山に囲まれた自然の地形を利用して城門を置くことで、南の守りを固めていました。
上城戸の土塁は、濠を掘った際の土と、東の山裾を削った土を盛り上げて造られています。その長さは105m、高さは5mを測り、階段を登ってみるとその高さがよく分かります。
また、発掘によって町屋跡や道路跡が見つかり、上城戸の際(きわ)まで城下町が広がっていたことが分かりました。
なお、この上城戸一帯は、昭和45年に土地改良事業が行われた際に、大量の遺物が出土し、遺跡全体の保存整備が始まったきっかけの場所です。

・武家屋敷
山側に連続する大規模な武家屋敷群の中でも最も規模が大きい武家屋敷跡であり、朝倉氏の重臣の住まいであった可能性があります。
建物跡等の遺構の多くは削られており詳しいことは不明ですが、屋敷地の北側に工房があったことから、このような大規模な武家屋敷の中に職人が配置されていたことも明らかとなりました。
また、庭園跡も確認されており、和歌や茶の湯が屋敷内で楽しまれていたと推定できます。

・復元武家屋敷
復原武家屋敷
この屋敷は約30m四方の基準的な広さを持ち、周囲に土塀を巡らし、西の道路に向かって表門を開いている。
屋敷内の南半に6間×4間の主殿を配し、これに接して東南隅に座敷と庭を設けている。
北半には蔵や使用人が居住したと考えられる納屋や井戸等が配されている。
これらの建物は、発掘調査の結果に基き、絵画等の資料を参考にし、推定復原を行った。
屋根は割板で葺かれ、室内には畳も敷きつめられ、舞良戸・明障子等の引戸が多く用いられている。
木材の加工には、かんな・やりがんな・ちょうな等当時の道具を用いている。全体にかなり進んだ建築様式の住宅であったことが知られ、一乗谷の文化水準の高さが伺われ、興味深い。

・主殿
屋敷の中心となる「主殿」と呼ばれた建物で、東西に小さな部屋が付属します。建物は、中央の柱通りで二つに分けられ、南半分は畳を敷き詰めた表向きの部屋で、接客や主人の日常の生活の場となります。主人と客が、将棋を指している場面を設定しました。北半分は低い板の間や土間で、納戸や台所となります。使用人が、魚を鉄の串で押さえて、さばいているところで、様々な生活道具を置きました。茶座敷となる離れ座敷には、花むしろを敷きました。






























































