【北陸本線】【駅周辺探索】高月駅
■西野水道
江戸時代後期の文化四年(一八〇七)、天保三年(一八三二)、同七年(一八三六)に当地をおそった大洪水と大飢饉により西野は壊滅的打撃をうけた。こうした惨状を救うため、西野充満寺住職恵荘は、西山を掘り貫き水道をつくり、余呉川の水を琵琶湖に流すしかないと考えた。
工事は天保十一年(一八四〇)より着工され多くの労力・経費を費やし、幾多の苦難を乗り越えて弘化二年(一八四五)に水道は完成した。
水道は「近江の青の洞門」と呼ばれ、長さ二二〇メートル、幅約一・二メートル、高さ約二メートルを測り、古生層の岩盤からなる山塊をくり貫いてつくられた排水用の水路で、近世の民衆史上特筆すべき貴重な遺跡である。
水道内の壁にはノミ痕が残り、水路は所々で折れ曲るなど、工事中に何度か方向とレベルを修正したことがうかがえる。

200m位だけど心折れそうになる。
洞窟探検家ってすごいんやな。
出口見えた時の安心感がすごい。

■木戸の道
古代における湖上交通は、北陸と大津、京都を結ぶ重要な交通路であった。幕末には琵琶湖に百二十の湊(みなと)があったという。大浦や塩津と共にここ木戸湊も大いに栄えた。この木戸の道は港に米などの物資を運ぶ重要な道であった。

・いっぷく場
ここは米を背負って一俵(60kg)力持ちは二俵を山越えて、びわ湖の湊まで運ぶ大切な道でした。
道中は坂ばかり途中で「休憩」せずにはいられず、中腰でこの石に荷をあずけ「ホッ」と一息ついた場所です。

・古保利古墳群
古保利古墳群は琵琶湖の北端、塩津湾に面する細長い丘陵上に分布する一大古墳群です。
時期は古墳時代初頭(3世紀代)から終末期(7世紀代・飛鳥時代)であり、現在判明している古墳の数は132基です。
各古墳は分布図のように一部を除いて丘陵稜線上に約3kmにわたって築造されています。
琵琶湖北端に直面する丘陵上に形成されていること、長期にわたって築造され続けていること、群集墳や後半・終末期古墳を除き主な古墳が自然地形にしたがって列状に並ぶことに特色があります。
それに前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳といった古墳時代に造られた基本的な形の古墳がすべてそろっています。
首長墓と考えられる前方後円墳・前方後方墳が現状で各8基、計16基も含まれています。
特に前方後方墳が多い点が特筆されます。
円墳と方墳はそれぞれ79基・37基あります。
また、この古墳群周辺には大森古墳(前方後方墳ないし双円方墳)、姫塚古墳(前方後方墳)、若宮山古墳(前方後円墳)、松尾宮山1号墳(方墳)など首長墓が分布しています。
つまり、古墳時代の各時期の様々な形をした有力な古墳が集中、築造されています。
これは高月地域とその周辺を中心に安定した政治的な地域体制が成立、存在したことの証しです。
以上のような分布状況に加えて、前方後円墳と前方後方墳が隣り合って築造された地点があること、前方後円墳は北・西方向を意識して構築されているなどの興味深い特徴があります。
古保利古墳群が形成された丘陵上から琵琶湖と平野部が一望でき、湖北一帯はもちろんのこと湖東・湖西方面も遠望できます。
深谷の古道のように湖からしか見えない古墳もあります。
このように琵琶湖を意識した立地は、当時の重要な交流・交易の手段であった水運を意識しており、まさに湖の古墳群です。
この古墳群の被葬者たちはそれを掌握していた首長層とその所属集団であったと推定されます。
古来より湖北地域は畿内と東海・北陸をつなぐ交通上の要衝であり、古保利古墳群の形成は当然とも言えるでしょう。
なお、一部の古墳の確認調査が実施されており、山陰・北陸・東海地方や湖南地域などほかの地域の特徴を持つ土器が少量出土しています。
土器以外にも、特に小松古墳(3世紀代・全長約60m・前方後方墳)では当時の権力の象徴である中国製の銅鏡や銅鏃・鉄鏃・水銀朱などが発見されています。
また、古墳群中最大規模の西野山古墳は全長90m前後の前方後円墳です。
築造時期は明らかではありませんが、立地(遺構)や墳形などから古墳前期末葉の古墳と考えられています。
湖北地域では長浜茶臼山古墳とともに滋賀県内有数の規模を誇っており、大きな権力を持った豪族とそれをささえた強力な集団が割拠していたことを物語っています。

・古保利古墳群B-6号墳
(小松古墳)
全長60mの前方後方墳で、主軸方向はN-2°-Wである。
後方部34×29m、前方部長さ23m、くびれ部幅14m、先端部幅22mを測り、標高194mで主尾根の高所に立地する。
古保利古墳群中最大、滋賀県下トップクラスの前方後方墳である。前方部は低く短く、あまり開かない。
後方部は長方形を呈し、2段築成の可能性がある。
この古墳の約100m北には帆立貝式古墳であるヘソ岩古墳(B-1号墳、全長22.5m)が分布している。
■姫塚古墳
姫塚古墳は余呉川と高時川によって形成された沖積地に立地する全長約六十四メートルの前方後円墳である。
南側にある前方部は後世に削り取られて、原形を止めていないが、本来の幅は二十メートル近くあったと推定されている。
葺石や埴輪などの出土品や埋葬構造は明らかではなく、周濠の存在も東側の田畑の形から推定も可能だが、現在のところ確認されていない。
築造年代を決める根拠は乏しいが、古墳の形態から五世紀代に造られたものと思われる。
前方部の南約五十メートルには陪塚(ばいちょう)と考えられる「みち塚」があり、また、西方の古保利古墳群との関係から、姫塚古墳はこの地域の古墳時代首長の動向をさぐる不可欠な資料といえる。

■八幡神社のケヤキ
湖北地方には「野神」として崇められているケヤキの古木、大木が多く見られるが、この樹木は県内でも有数の巨木であり、また均整のとれた樹形でもある。
毎年8月16日には野神の祭日として五穀豊穣が祈られるなど、地域住民に親しまれている。





















































