四條畷市立歴史民俗資料館
土蔵造二階建、明治40年に、「枚方区裁判所用可出張所」として建築
平成18年12月、国指定登録有形文化財建造物に指定

■古墳時代
朝鮮半島から新しい文化をたずさえた渡来人は準構造船で玄界灘を命がけで渡ってきました。
馬を乗せた準構造船が次々と大阪湾から河内湖に入ってきました。
松木哲氏(神戸商船大学名誉教授)によると、「準構造船は船底が丸く転覆しやすいため双胴船に仕立てて馬を運んだのでは」と想定されています。
四條畷周辺で馬をおろして牧場を開き、馬の飼育・祭祀・医療などの技術を伝えました。

四條畷は馬の牧場に適していました。
西に河内湖、東に飯盛山系をひかえています。
山からは、讃良川、岡部川、清滝川、権現川などが河内湖に注いでいました。
川が柵の役目を果たし、馬の好む草が豊富にありました。
苦労して運んできた馬は大切に育てられて、讃良は馬飼いの里となりました。
(讃良は四條畷(しじょうなわて)周辺の古い地名)
渡来系の馬飼の人々の熱意で、牧はおよそ150年も繁栄し、王権を支えました。
しかし、奈良時代になると、ばったりと馬の姿が見られなくなります。軍事の要は馬となり、多くの馬が必要となり、讃良の牧では間に合わなくなりました。
国の牧が定められ、法律で厳しく管理されるようになりました。

河内湖畔の蔀屋北遺跡(しとみやきたいせき)では準構造船を転用した井戸枠や馬骨一体分が見つかり、
鎌田遺跡では、まつり用の楽器が出土し、奈良井遺跡では、馬を《いけにえ》にする過激な馬のまつりを行いました。
四條畷で育った馬は大和王権に供給されて軍事や儀礼を支えました。
河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)の情報収集によって継体天皇即位へと導いたことはよく知られています。

四條畷の忍ヶ丘駅前周辺では人物埴輪や家形埴輪や馬などの動物埴輪がたくさん見つかります。
これら土で作った埴輪は古墳から見つかったのではありません。村の入り口などに立てて村を守る役目をしたのかもしれません。
本来、埴輪は古墳に立てるものです。
四條畷では、生駒山系の裾野に多く古墳が造られ前方後円墳や円墳など多数発見されていますが、正法寺建立や溜池の大規模開発、
川の流れが変わる事で古墳が破壊され、埴輪はあまり見つかっていません。
また、百済系の土器が見つかる事から山裾を馬飼いの墓域としたのでしょう。

・子馬形埴輪
はにわ展にも出張していた。かけもなくきれいな状態。

























